【森博嗣】ヴォイド・シェイパ

ヴォイド・シェイパ - The Void Shaper (中公文庫)


好きな本 ぼしゅう6月のコメントより。
>最近読んだオススメの本は2冊、正確にはシリーズ2作あります。
一つは森博嗣さんの「ヴォイド・シェイパシリーズ」で、なんと剣豪モノの時代小説。師匠の遺言により山を下りた若侍・ゼンが人間社会に触れて成長してゆく話であり、旅の中で自身の出生の秘密を知ってゆく話でもあります。時代小説として突飛な話ではありませんが、作者が作者だけに、今迄にない味わいです。山暮らしが長く、世間を全く知らず育ったゼンさんの思考は大変に素直。彼の一人称に付き合っていくうち、考え方に“癖”が付いてしまった私達が気付かされることが沢山あります。論理的な文章が続く作品ですが、チャンバラシーンは一転、感覚的で研ぎ澄まされた思考の短文で、日常と好対照。没入度が上がりたまりません。

森博嗣さんのおすすめを頂いた。「あいや、ミステリー作家の人かと思っていたが、時代小説もあったとは知らなんだ」
ミステリー作品は自分で読んだことがあったし、航空機での架空のSF戦争を描いたスカイ・クロラはこの間おすすめされて読んでみた。そういうイメージがあったから時代小説は珍しいなと感じたが、どう見てもタイトルが時代小説っぽくなかった。「中を見れば分かるかもしれん。先に進むで候」。ページを捲ると目次に各章のタイトルが出てくるのだが、第一章の名が「Searching shadow(サーチング シャドウ)」でその他の章も全て英語表記だった。「異国の文字が出迎えてくるとは奇怪な。これは本当に時代小説なのかで候」。未だに見えてこない時代小説っぽさとは別に、私のエセ候文に早くも限界が訪れたようだがこれも別問題である。更なる前進を試みるために第一章を開いてみると、「Was it the spirit …」と、とうとう英語表記で冒頭が始まってしまった。「アイエェェェ!?ナンデ!?英語ナンデ!?」。己の英語力を駆使し解読を試みるも挫折、面倒くさくなってさっさと次のページへ進むと武士道の一節と引用元である旨が明かされていた。「オォ、ブシドー。これは…時代小説」。納得。
お話は幼少の頃から山奥に住んでいた侍「ゼン」が人里へと下りてきた場面から始まる。面倒を見てくれたカシュウという老齢の侍と二人で長らく暮らしていたが、彼が亡くなった事によりゼンは旅をすることに決めたのだ。その最初に、カシュウが亡くなった事を伝えるため、滅多に下りなかった里へと向かっている。ちなみにカシュウという侍は天下に名を轟かす剣の達人だ。だからカシュウに長らく育てられたゼンも、当然の事ながら剣の達人なのである。そして人々と隔絶し木々や野生動物たちと死生観を培ったゼンは、率直であり何事にも真摯であった。「何この天上人。下界に波乱と希望をもたらしに来なさったか」。ゼンが村人たちの前に出れば話題の的になることは必死の、ワクワクするような才能ぶりに、ベタな設定ながらも先の展開が非常に楽しみになってきた。そんなすぐ有名になるような人物なら今まで知られなかったのはおかしいのだが、そこはファンタジーやフィクションの醍醐味なので細かいことは気にスンナである。
育ての師匠の死をきっかけに旅に出ることにしたゼンには明確な目的というものはない。もしくは目的を探すために旅に出たとも言える。気ままな旅だ。道で人に会えば山で見かけなかった見知らぬ道具について尋ね、日が暮れてくれば宿屋でも民家でも泊めてもらえる場所を探す。そうして人と関わりあうことで小さなドラマが生まれ、お話が進んでいくのだ。彼の素直な物言いが、関わりあった人にも読者である私にも当たり前のことが逆に意外に感じられ面白みが生まれる。ゼンは問う「それは何ですか」と。問われた相手は答える「これは数珠だ」「これは三味線だ」と。ゼンはさらに問う「何に使うものですか」と。私は当たり前の使い方を答えようとしてふと考える。改めて数珠を説明するのも難しいもんだ。何でこんなものを使うんだっけ。当たり前に思っていた事が不思議に感じられ、気付けばゼンからの問いは自分からの問いに変わっていたりする。あれま、面白いなぁ。
ゼンとの対話で面白いと感じるのは何も私だけではない。道中ですれ違う女子たちも気付けばゼンの魅力にメロメロだったりする。無自覚の天然物な女たらしだ(まぁだらしないわけじゃないけど)。道案内を頼んだ女子は上目遣いで簪をねだってくるし、挨拶に行った道場の娘は全力で体を差し出してくるし、宿屋で出会った女芸人は一曲サービスしてくれた。「どの女性も慎ましやかでなんかカワイイんですけど!たまにちょっとスネたりとかグッと来るんですけど!」。ゼンのモテっぷりに毒づきたい気持ちがあったが、それ以上に女子が可愛らしくてそのまま飲み込む事にした。一番のお気に入りは三味線を弾いてくれたノギさんだ。ノギさんのいじけてもパタパタ後を付いて来る姿を見させてくれたゼンにはボーナスポイント進呈だ。
ゼンの素直な物言いで一番思い出深いのは、修行をすれば誰でも強くなれるのですかと逆に人から問われたときの考えだ。稽古をすれば刀と体の使い方を覚える。覚えるということは知ること。自分の体と刀が強ければそれを知れば確実に強くなれる。逆に自分の体が弱ければ、弱さを思い知るだけだろう、とのことだった。うん、そりゃそうだ。言われてみるまでそんなことも考えもしないもんだなぁとちょっと笑った。
剣の達人に育てられたゼンの剣術は、このお話の内では無敵の強さである。アクションシーンに対する期待もばっちりとカバーだ。しかもガッキンガッキンやたらと手数が多い戦いではなくて、必殺の一撃で雌雄が決する緊張感のある戦いだ。「ど派手な割りに相手にガードされまくる技の応酬は昔から好きじゃなかった。動きがあったときには、既に勝敗は決まっている。これね」。一人頷く私。
時代小説といっても、当時の歴史的な事件や情勢を理解していないと分かりにくくなるような話ではなく、すんなりと楽しむことが出来た。そもそも侍とか刀とか出てくるけど何年ごろの話だコレとはっきりさせない部分もある。読み終わってみれば、なるほどいつもの作者さんの持ち味は健在でありますなと通ぶった顔の私が一人余韻に浸っていた。